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橘しのぶ詩集
おとうとよ/つばさがあっても/おまえには空がないのだよ
ときどき現れる非現実的な出来事と、
空想と現実のあわいが淡く混ざりあう幼少の記憶とが、
精妙な人間関係図のなかで、ぽつぽつと点滅する。
その光を手掛かりに読み手は、文字をたどり、ことばをたどる
(望月遊馬)
【作品紹介】
告白
十かぞえるあいだに泣きやんだら、この耳をあげると、あなたは
言った。見たところ、あたりまえの耳である。掌に載せると、脈打
ち始めた。千年前の貝殻みたいに不愛想だ。春の雪の匂いがする。
ふとしたすきまにしまっておいて、なんて、言われたって。耳なんて。
そんなつもりじゃなかったのに。あなたの歩幅を気にしながら、少
し後ろをついてゆく。
微熱の続く昼下がりには、かくれんぼの声がこだまする。三半規
管に根を張った樹木の幹に顔を伏せる空蝉みたいな娘は、わたし。
「もういいかい」
「まあだだよ」
しなやかな枝は鳥族の棲家で、おもいおもいに歌っていた。しず
かにあつくゆれながら、かかとからあかく染まってとけていった、
ろうそくみたいな娘は、わたし。ことばで人を殺すことはできるが、
ことばでは人を愛せない。視姦されたところで孕まないように。
発語された愛はシロフォンのしらべにかわる。
すみやかに影が去っても、枝はまだゆれつづけている。ふとした
すきまなんて、そんじょそこらにあるもんじゃない。帰りそこねた
一羽のわたしが、あなたの耳からこぼれ落ちる。
啓蟄
ももいろの侏儒がいくたりも
空からつるされたロープをのぼってゆく
区役所の裏の公園には
重たいくらい花粉が充満していた
なにか、を待ち焦がれているかのように
ベンチにこしかけぽかんと空を見上げた
婚姻届けを提出した帰りだった
出産届けを提出した帰りもだった
離婚届けを提出した帰り
ベンチにこしかけ空を見上げた
信じてさえいれば
待つことはかけらほども怖くはないが
ももいろの侏儒を見たのは
実はそれが初めてだった
最後まで見届けたかったのに
ロープは手際よく巻き上げられ
空の駅を今、縄電車が出発するところである
私も乗客の一人になって身をのりだして
なにか、に向かって手を振っている
満員御礼の垂れ幕が空に
つるんとかかっている
著者 橘しのぶ
栞文 望月遊馬
発行所 七月堂
発行日 2022年11月10日
四六判 96ページ
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